「戦争から平和へ」
最終更新日:2016年4月1日
徳島市吉野本町 賀好 美智江
戦争は二度と繰り返してはならない。昭和十四年、真心のこもった千人針を身に着け父は「国の為」に出征して行った。「武力による戦争が、これから始まるんだ。」と私は直感した。それ以後戦争は次第に熾(し)烈化して行き、戦前は恐怖と常に不安。戦後の混乱や、あわただしい生活をいやと言う程、身に沁みて体験をした。戦争とは「心」をおもちゃにし、揚句は死に至らしめる。我が家にも沖縄で戦死した若年一九歳の英霊を祭っている。
思い起こせば、昭和二十年七月の徳島大空襲。敵機一二九機が数千発の焼夷弾を投下し、市の中心部は火の海。逃げまどう人々。私は無我夢中で避難し無事だったが、道端には死人の山。「ああ、かわいそうに」私は涙があふれた。戦火の為、どの人も黒焦げの状態だ。人々は明日への生活の為、整理をし、焼けたトタンを拾い集めバラックを建て始めた。早くも四方で金づちの音。焼け出されたのに、なぜか大いに張り切っている。世間一般の人は、必ず「日本が勝つ」と信じていたから、
「国民は一致団結、銃後は守ります」。
ところが八月に入って、ガアガアと雑音入りのラジオから玉音放送があり、日本は敗戦となる。「信じられない、くやしい、でもこれで空襲はないんだ」なぜか、ほっとした気持。
敗戦から復興する迄には余程の時間と忍耐、努力を必要とした。瓦礫を取り除き露地を耕し、空豆、カボチャ等を植え、食糧の足しにする。その時主食は一日一人当たり二合一勺の配給。ナンバ粉、トウモロコシの粉等はパンを作ったり、水とん風等にして食べる。又汽車に乗り、さつま芋の買い出し。カボチャの蔓は雑炊の中へ入れ、種は炒(い)ってオヤツに、油であげたサナギ等、戦中戦後の食糧難を不平不満一つ言わず、満腹させていた。だが野菜ばかりの食生活の為、回虫が湧いてしまった。それも一段落しホッとしたのも束の間、頭のシラミから身ジラミが市内一円に蔓延。しばらくして全校生徒にDDTを頭に振りかけた。身ジラミは白いが血を吸って赤くなっている。かゆくてかゆくて人前でもボリボリとかく。仕方なく衣類を何度も熱湯消毒し、ようやく身ジラミも解決した。この様に戦争をした結末が、この有様である。この頃より徳島駅周辺にヤミ市が出現、徐々に店が増え50軒程の商売人がムシロを敷き、その上に商品を並べ商いを始めた。野菜から始まって、すぐ食べれる食物、日用品迄がどんどん「ヤミ値」で売れる。復員していた父も毎日チリ紙、石けんをムシロの上に並べて働いた。私も手伝ったが、繁盛はするし、又お客様にも喜ばれた。誰もが生きる為に必死に働いた。耐えがたきに耐えた時期である。やがて町の再建に伴い、ヤミ市は次第に姿を消して行った。翌昭和二十一年十二月二十一日午前四時頃、最大震度六の南海道大地震が発生。市内の津波は二センチメートル程だが、間に合わせに建てたバラックが、マッチ箱がひしゃげた様に無残な姿になり、その下敷きで多くの方々が死亡する。これは終戦から一年目の自然の追い討ちであった。悲劇ばかりの日々が続く。
やがて二年目ぐらいから、人間らしい生活に戻る。昭和二十二年八月の阿波おどり。皆に負けず劣らず、町内がにわか連を作り、思い思いのゆかた衣装を着、今迄の、うっぷんを晴らす為、三日間は踊りに明け暮れた。昭和三十五年ぐらい迄を追懐すると、二つかまどの、おくどさんで食事の用意、片方で御飯を炊き、片方でおかずの煮炊き。木をくべながら、火吹き竹で「フウフウ」息を吹いて火を起こす。火消しツボも重宝がられた。七輪は、ぶんぶく茶がまかドヒンで湯を沸かす。さすれば、おくどさんが炊飯器、ガスレンジやオーブン、ウチワが扇風機、冷暖房のエアコンと現代では次第に体を使わず、実に快適な生活で過ごせる。
戦後五〇年、敗戦から早くも半世紀が経過し日本は大きく変容した。現在は経済大国、高度成長時代となり豊かな日本で私達は平穏な日々を過ごしている。誠に喜ばしい限りだ。でも有頂天になってはならない。この大空襲で多くの犠牲者が出た事を絶対に忘れてはならない。又戦死者のご冥福をお祈りすると共に、輪廻(りんね)転生を。
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