「幻のB29 -私の徳島空襲体験-」
最終更新日:2016年4月1日
徳島市丈六町 田尻 正人
昭和二十年七月三日、その日私は同期のT中尉と上陸(外出)、その頃よく利用していた「A」旅館(徳島市中通町1丁目)に向かった。
当時、私は徳島海軍航空隊で「白菊特攻隊」の一員として、第二回目の出撃を目指して日夜猛訓練に励んでいた最中で、この日は束の間の息抜きの上陸であった。いつも一緒に帰隊するのだが、その日に限ってしきりに泊まってゆけと勧める彼の言に、明日の飛行作業のことが気になったが、「俺に任せろ」と言う勧めに従って、同旅館に泊まることにした。
ところが、一二時を過ぎた頃だったか、思いがけない空襲警報が発令された。あのお馴染みの「ぶわんぶわん」と言うB29の音が、いつもより随分と低く聞こえるなと思う間もなく、「ザァーッ」と言う雨の音とも違う異様な音がしたかと思うと、「どーん」と言う爆弾の音と共に、先ず城山の北側が一瞬真っ赤に燃え上がった。初の夜間空襲である。
「これは危ないナ。」と急いで外に出て上空を見上げると、真っ黒なB29が一機、高度一,〇〇〇メートル位だろうか、悠々と東から西にコースをとって飛んでいる。更によく見ると機はそのまま南へ変針、逆のコースを引き返して、さっきの隣南側のコースを東から西へとり爆撃を繰り返していることが分かった。だから次の爆撃コースに入るまでは若干の時間があるわけだ。それが分かると少し落着いたものの、「海軍士官が真っ先に逃げ出すわけにゆかんナ。」と暫く様子を眺めていたが、空からの異様な音と共に、火の手は城山を越えてだんだんと迫って来る。
このままでは、むざむざ焼け死んでしまう、とついに意を決して、腰の短剣を外して風呂敷に包み、軍服の襟を裏返し、二本線の入った艦内帽を反対にかぶり、旅館を飛び出した。富田橋の北話めまで来た時、前後左右に焼夷弾が落下、途端に真赤な炎が辺り一面に燃え上がった。迚も迚も竹箒やバケツ水などでは歯が立つようなものでない。(後日判明したことだが、米機は先にドラム缶でガソリンを空から撒いたあと、テルミット焼夷弾を投下したらしく、これでは当時の小都市など焼き尽くすことなどわけなかった筈である。)
既に火の手の上がった富田橋を必死で走り抜け、富田浜に出た、もうこの時には、多勢の市民が必死の形相で右往左往逃げまどっている。上空を見ると、B29は相変わらず一機が悠々と飛んでいる。風はどうやら西の風のようだ。「よし、今だ。」B29が爆撃コースに入っていないのを見届けて、近くにいた数人の人達を誘い、篭屋町、東山手町を通り抜け、陸軍の「偕交社」の前の大きな岩の前に隠れ、様子を窺ったのち、南の方にある神社の境内だったろうか、山際の空き地に辿り着いた。
見ると既に先客が一杯避難しており、一様に不安な面持ちで、あちこちで肩を寄せ合うようにして、じーっと隠れている。暫く様子を窺っていたが、火の手は容赦なく次第に山手にも燃え広がって来る。
見ると、消防団の法被を着た人達が、必死に消火活動をしている。然しよく見るとホースの筒先はボンボン燃え盛る炎に向けられていて、一向に消火の効き目があるように見えない。「あれじゃダメだ、手前の家がやられるゾ。」とヤキモキしながら見ていたが、とうとう思い切って立ち上がると、襟を正し、艦内帽を正しくかぶり直し、あご紐を強く締めると、急いで現場に駆けつけた。「俺に寄越せ」と怒鳴るように言うや否やホースを取り上げると、吃驚(びっくり)する消防士を指揮して、未だ無傷の二階建長屋風住宅の二階に駆け上がった。それからは私が陣頭に立って消防団の人達を指揮して燃え易い建具類をどんどん壊させると共に、私自身ホースを持って未だ燃えていない家の屋根に上って、下の道路で必死で龍吐水を押し続ける隣組の人達を督励しながら、燃えていない部分に向けてホースを向け続けた。
何時間が経ったろうか、東の空が白みかけた頃、さしもの猛火から類焼を免れた昨夜の家々が無事残っているのを見た時には、疲れも忘れて、「やったー」と心中私(ひそか)に快哉を叫んだ。朝になって、焼け残った住宅街を感慨深く眺めながら通る私を見て、民間の人が「あぁ昨夜の海軍さんだ」と囁き合っていた声が今でも忘れられない。
朝になるのを待ちかねて、昨夜のコースを逆に偕交社前から、新町国民学校、新町橋、駅前、徳島城公園と未だあちこちで燻(くすぶ)っている火の中、道路には黒焦げの死体が一杯無残に転がっている中を通り抜け、吉野川を渡って、無事帰隊することが出来た。
一方、隊では責任を感じたT中尉を始め同室の七人が、昨夜の空襲でてっきりやられたに違いないと、私の身を案じて早朝から「A」旅館の焼け跡を掘り起こしたものの、私の姿が見えないことから全員あきらめて帰隊していたところへ、ひょっこり私が元気で帰隊したものだから、夢かとばかり驚喜して拍手喝采で迎えて呉れた。
二日後だったか、夜間飛行で市の上空を飛んだが、未だ市内のあちこちで火の手が上がっており、上空からの眺めが迚も綺麗だったことを覚えている。
今考えると、あの空襲のなか、短剣を包んでいた風呂敷一枚を失っただけで怪我一つせず無事助かることが出来たのは、一つには飛行機乗りの勘で、B29の爆撃コースを見極めたこと、風上に逃げたこと、最後に避難した場所が木々に囲まれた広い空地で火勢を喰い止められたことなど多分に運にも助けられたものと思う。
あれから半世紀、一晩中、獅子奮迅の働き(と自負している)をして守った住宅街にその後一度も訪ねていないが、多分伊賀町の2~3丁目辺りではなかったかと思う。夜が明けて、裏山の畠になっていた胡瓜をちぎって食べたその美旨しかったこと、今でも忘れられない。
ところで、最近も或る新聞で徳島を空襲したB29は一二〇数機だった旨の記事を読んだが、あの晩私がこの眼で見たのは確か一機だったと今でも信じている。第一に、僅か二四~五万の人口の小都市を爆撃するのに百数十機の大群は必要ないし、狭い徳島の空を沢山のB29が低空で乱舞したら危険極まる戦術と言わねばならない。
飛行機乗りだった私には、今でもあの夜たった一機、我が物顔で徳島の空を蹂躙(じゅうりん)し去ったB29の姿が思い浮かぶ。それともあれは私の幻だったのか?
因にあの晩は、明石、洲本、徳島、今治の四市が空襲を受けたと記憶している。
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