「私の戦中戦後記」
最終更新日:2016年4月1日
徳島市南沖洲 高木 洋子
私は、昭和九年七月三日生まれです。だから太平洋戦争勃発時は、神戸の千歳国民学校の一年生でした。そのとき先生が、日本とアメリカの軍事力の差は、とてつもない開きのあることだと、一年生の私に理解できない数字で語ってくれたのです。
やがて父は、勤め先の日本郵船から、軍属でフィリピンのマニラへ行ってしまいました。その頃から学童疎開云々、私は縁故疎開で母の故郷である徳島へきました。叔母が迎えに来てくれて、三宮の省線で母とは束の間の別れでした。当時、祖母が居てくれたのですが叔父の居る満州へ行ってしまい、家族と別れて寂しい上に尚の事でした。
それから、父の故郷は沖縄ですが母も妹達を連れて徳島へ疎開して来ました。父の便りで沖縄へは絶対に行くなとの事で、後で母が言うには、沖縄が激戦地になることが判っていたのだと。
そして、そのころ学校ではしょう国民の歌とか、手旗信号、モールス信号を習っていました。
しょう国民歌
「勝ちぬく僕らはしょう国民
天皇陛下の御為に
死ねと教えた父母の
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
赤い日の丸立てるのだ」
ある日、学校から帰って間もなく、低空飛行の爆音で慌てて家へ飛び込んだ瞬間、ものすごい音と震動がありました。秋田町に爆弾が落とされたのでした。
当時、明神町に居住しておりましたが、今まで仲良く遊んでくれていた友達が急に、「疎開子、疎開子。」と囃子立てるのです。私は、これは何と呆気(あっけ)にとられてしまいましたが、今から思えば苛めの一つだったのでしょうね。
そんな些細な苛め等ふっ飛ばす、昭和二十年七月三日夜半徳島の大空襲、背中に妹を背負い片手に布団を持ち、三人の妹達と明神さんの土手へ逃げました。母は防火の為残ったのですが、背中の妹が焼夷弾で夜空が真っ赤に燃え上がるのを見て、「姉ちゃん綺麗やねー。」と言った言葉を私は複雑な気持ちで聞いていました。それを正してやる気持ちの余裕も無く、皆が走っていく後を一生懸命について行くだけで必死でした。火の粉が飛んできて慌てて池に飛び込んだり布団をかぶったりでたいへんでした。
翌朝どの様な経路で母と会ったのかよく覚えていませんが、富田から沖洲まで歩いて親戚の家まで辿り着きました。あまり血の濃く無い親戚なので、母は肩身の狭い思いをしていた様ですが、納屋で住まわせてもらっていました。その後終戦を迎えましたが、間もなく父の戦死の公報が入りました。父は昭和二十年二月だと思いますが、マニラの激戦で亡くなっていました。戦争が半年早く終わっていたら、父も戦死せずに済んだのにと母と抱合って泣きました。
それを機に会社からの送金も途絶え、僅かの退職金も使いはたして、母は地元の地引き網の手伝いをしてお金を得ていました。母の口癖で、「人間どの様な環境になっても食べていける様、手に職をつけていなければ、自分に商売のイロハがあれば。」と、常々言っていました。
母も苦労が重なり、五五歳の若さで亡くなりました。父方の里とも音信不通になっていましたが、沖縄出身の喜屋武真栄と言う、参議院議員の方(私と同姓)に沖縄の住所を調べて頂き、やっと交流が出来る様になり父のお墓に家紋を入れる事が出来ました。
過日、父の五〇回忌をすませましたが、思えば誰にも看取(みと)られず南方の地の果てで戦火の中、命を落とした父が哀れでなりません。 合掌
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