とくしまヒストリー ~第8回~
水軍の町 -福島・安宅・沖洲-
藩主の乗る御座船を取り囲むように整然と、そして厳かに進む大小70艘もの大船団。これが徳島藩蜂須賀家の海の参勤交代であった(「参勤交代渡海図屏風」参照)。
阿波・淡路は、古来より水軍の活躍が目覚ましかった土地柄だ。阿波水軍は源平争乱の頃に名前がみえ、また淡路水軍の安宅(あたぎ)氏は三好長慶(ながよし)の覇権を支えた。蜂須賀家は文禄・慶長の役や大坂の陣において活躍したが、それは森家を中心とする水軍の働きによるところが大きい。森家は、戦国時代に阿波国を治めた細川家・三好家の舟師として土佐泊城(鳴門市)にいた海の豪族。森志摩守(しまのかみ)村春は四国をほぼ支配下においた長宗我部元親の侵攻を守り切った、阿波では唯一の武将だ。天正13年(1585)の四国攻めでは、秀吉軍の先導役をつとめ戦功があり、蜂須賀家政から、3,026石余が与えられた。この時、本拠を土佐泊から椿泊(つばきどまり)(阿南市)に移され阿波の海上の押さえとされた。蜂須賀家は森家を取り込み、徳島藩水軍として編成していったのである。
船頭や船を漕ぐ水主(かこ)、さらには造船技術を有した船大工が集められ、江戸前期には徳島藩水軍組織が整備された。水軍の基地は、はじめ徳島城の北東にあたる常三島(じょうさんじま)南東部に置かれていたが、寛永末年(1640年頃)に福島東部に移転した。徳島藩では水軍を「安宅(あたけ)」と呼んだが、水軍の基地が福島東部に移ったために同所が安宅と呼ばれるようになった。この水軍の基地には100隻を超える船が収容され、同所で造船や修理を行うことができた。基地は東西約460m、南北約300mほどで、現在の徳島市城東中学校がすっぽりと収まってしまうほどの大きさだ。
徳島藩領には多くの藩有林が存在したが、その材木は水軍の船を造り修繕することを目的としたものだった(『徳島県林業史』)。蜂須賀家が水軍をいかに重視していたかが窺われる。恐らく、蜂須賀家には阿波・淡路両国の海域を守るという強い自負があったからだろう。
福島の四所神社以東は水軍が管理・支配する地域で、町奉行の警察権が及ばない場所だった。
船頭や水主らは優遇され、扶持米以外に屋敷地が与えられた。沖洲に約170軒も置かれた水主の屋敷は、表口5間・奥行15間で75坪もの広さだった。水主は船を漕ぐため日常的に体を鍛え、明治時代になると、恵まれた体格を活かして軍人や警察官になったという(『阿波蜂須賀藩之水軍』)。
船大工が屋敷を与えられたのは、安宅の南に位置した大工島(徳島市大和町)で、江戸時代の絵図によれば55軒を数える。藩主の乗った御座船を造った船大工の技術は卓越していたことだろう。腕に覚えのあった彼らは、廃藩後は自立の道を歩み、木工業に従事し、箪笥や仏壇、下駄などを造り販売した。これが徳島市の地場産業、渭東の木工業の始まりとされる。
身近な水軍の歴史や伝統が今も残っていて、徳島の歴史研究は本当に興味が尽きない。
「徳島藩参勤交代渡海図屏風」(出船) 蓮花寺蔵 徳島市指定文化財
参考文献
団武雄氏『阿波蜂須賀藩之水軍』、徳島市立図書館発行、1958年 根津寿夫「徳島藩水軍の再編 ー武家集団における秩序の形成ー」(高橋啓先生退官記念論集『地域社会史への試み』所収、2004年)
特別展図録「大名の旅 -徳島藩参勤交代の社会史―」、徳島城博物館発行、2005年
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