とくしまヒストリー ~第2回~
城下町誕生秘話 -徳島築城-
徳島城は明治初年に解体され天守等の建物は全く残っていないが、江戸時代には阿波・淡路両国25万7千石を領した大名蜂須賀家の居城、そして政庁だった。徳島城の魅力は、徳島産の結晶片岩を使った石垣で、「野面(のづら)積み」などの時代ごとの、さまざまな石積みを見ることができる点だ。平成18年には国の史跡に指定されている。また殿様が毎日眺めていた庭園が残っているのも貴重だ。殿様の居間である中奥(なかおく)や表御殿に面しているので「旧徳島城表御殿庭園」(国指定名勝、昭和16年)と呼ばれる。枯山水と築山泉水庭(つきやませんすいてい)からなり、園内を散策することができる。特に晴れた午前中の散策は爽快だ。徳島城は、建物はないが、石垣や庭園が素晴らしい。
さて、徳島城の歴史は古く、天正13年(1585)に遡る。同年、阿波国の領主となった蜂須賀家政は、すぐに猪山(現在の城山)に築城を始めた。城地の選定は天下人秀吉であった。8月4日付けの秀吉の書状写し(「豊臣秀吉朱印状写」毛利博物館蔵)では、家政の居城は猪山がよかろうと述べ、さらに阿波一国を治める城として工事を行うよう命じている。
猪山城は、阿波国を細川氏が治めた時代には切幡城主森飛騨守が番手を置いたとされる。天正10年(1582)からの長宗我部氏の時代には家臣吉田泰俊が守備したが、天正13年の四国攻めの際には戦わず逃亡した。要害堅固な城ではなかったようだ。
徳島城は、この猪山城をベースに助任川と寺島川を堀として取り込んだ城で、秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力し築造し、翌天正14年(1586)には完成したという。比叡山の僧侶が参加したというが、同山の麓には「穴太(あのう)衆」で有名な穴太村(大津市坂本穴太町)があることから、城郭などの石工職人も加わっていたことだろう。「野面積み」と呼ばれる、この時の石積みは本丸東部に今も残り、石垣を眺めていると戦国時代にタイムスリップしたような気持ちになる。徳島城見学のお薦めポイントの一つだ。
築城時の悲しい伝説がある。城山には素月という修験者がおり、築城するので移転を命じたが、これを聞き入れないので、蜂須賀家政は素月を斬り殺してしまったという。封建領主の力の強かった時代のことで随分酷い話だが、家政も一抹の後ろめたさがあったのではないか。城山中腹には素月堂を建ててその霊を慰めている。また山頂には清玄坊神社があるが、斬殺されたのは清玄坊という説もある。斬殺の舞台となったとされる紙屋町(現在の徳島市一番町)では、毎年5月5日に清玄坊を祀り、町内の無事息災を願う祭が今も行われている。
現在と過去が交差するのが徳島城だ。歴史世界をイメージしながら散策すると、見慣れた石垣も変わったものに見えるのではないだろうか。
「旧徳島城表御殿庭園」
[写真解説]
枯山水に架かる青石橋。中央で割れているが、初代藩主蜂須賀至鎮が奥方に毒を飲まされ地団駄を踏んで踏み割ったという伝説がある。勿論、史実ではなく、至鎮が35才の若さで亡くなったことや外様大名の蜂須賀家に大御所徳川家康の養女が嫁いできたことなどから創作された話だ。参考文献
『徳島県の中世城館』、徳島県教育委員会、2011年
河野幸夫『徳島 城と町まちの歴史』、1982年
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