とくしまヒストリー ~第12回~
商品券となった「白醤油」 -城下町の食文化3-
今回は日本の代表的調味料として親しまれている醤油。私たちの食生活に欠かせない醤油は日本独特の調味料のひとつで、大豆と小麦を原料にして発酵させ、これを搾って醸造したものだ。醤油の原型は古代中国から伝わった醤(ひしお)で、穀醤(こくびしお)・草醤(くさびしお)・魚醤(うおびしお)・肉醤(ししびしお)があり、米・麦・豆類を発酵させた穀醤から味噌や醤油が生まれた。醤油は室町中期より使われ始め、関西で発達し、江戸中期には関東でも醸造された(中村幸平著『新版・日本料理語源集』、林玲子・天野雅敏編『日本の味 醤油の歴史』)。
醤油は、濃口醤油のほか、色の淡い薄口醤油、大豆を主原料とした溜り醤油、塩水の代わりに醤油を使って仕込んだ再仕込み醤油、大豆の使用料を減らして淡色に仕上げた白醤油と、さまざまだ。
主産地は、濃口醤油が千葉県野田と銚子、薄口醤油は兵庫県龍野と高砂、香川県小豆島、溜り醤油は愛知・岐阜・三重県、再仕込み醤油は山口・広島県、白醤油は中部地方となっている(『語源・由来 日本料理大事典』上巻)。
このように醤油産地が誕生したが、城下町徳島にも名物醤油が存在したことは知られていない。江戸時代末期の阿波・淡路両国の特産物を表した番付「御国産名物見立相撲」(徳島県立博物館蔵)を見ると、西の関脇に「冨士谷白醤油」がある。200件近い品目のなかで大関に次ぐ第2位を占めているのだ(江戸時代の番付には横綱はなく、大関が最上位だった)。もっとも阿波の特産物の代表である藍や塩、砂糖は大関より上位にあたる番付の中央に位置付けられているため、単純に2位とは評価できないが、指折りの有名商品であったことは間違いがない。
白醤油は、色がほとんどなく透明に近いことから命名された。淡泊な味と香りで、つゆ・吸物・鍋料理などに使用されたが、長期保存はきかず変色してしまう。白醤油の誕生は、19世紀初頭の三河国(愛知県)など諸説がある(井奥成彦「醤油の味のちがい」、林玲子・天野雅敏編『日本の味 醤油の歴史』所収)。
城下町徳島で醸造された白醤油は醤油研究史の上では全くの空白だ。しかも、その白醤油が徳島ではブランド化し、大人気だったから実に興味深い。
人気のあまり、江戸時代の商品券にあたる「白醤油切手」が発行されていたのだ。縦16.7cm、横10.3cmの切手版木(写真)は、全面に墨が残り黒々と光沢を放っているが、浮き彫りされた表面の文字はすり減っている。余程使い込まれたのだろう。往時の白醤油の人気がうかがわれるようだ。裏面には版木の製造年月を示す「白醤油切手 天保三歳辰(1832年)四月吉日拵之(これをこしらえる)」という墨書がある。表面は「白醤油壱升 徳島二軒屋町冨士谷久兵衛」とあり、この切手(商品券)を販売元の二軒屋町の冨士谷家に持参すると白醤油1升と交換してくれるのだ。
ちなみに、二軒屋町は城下町徳島の南の玄関口にあたり、藩祖蜂須賀家政(1558~1638)が城下町を開設した頃は人家が2軒しかなかったことから、この名がある(「阿波志」徳島城博物館蔵)。
ただし19世紀には230軒ほどの大きな町に成長している。冨士谷家は、江戸時代後期に同町の町年寄(町長)を務め町政をリードするとともに、醤油など幅広く商売を展開した豪商だ。
白醤油の値段は具体的には不明だが、冨士谷家で扱っていた醤油は1升が銀1匁(もんめ)(現代では約2,000円)で、白醤油も同程度と考えられ、庶民には手の届かない高級品だったことだろう。
同家が扱っていたのは白醤油だけでなく、他の醤油屋とともに讃岐の観音寺醤油を移入し販売するとともに、これの醸造を試みている。観音寺醤油の販売先は蕎麦屋に限定されるので濃口醤油であろう。
江戸後期、城下町徳島では、料理によって適した各種の醤油を入手できる食環境に到達していたものと考えられる。それは上層の都市住民や料理屋に限定され、庶民のものになっていなかったかもしれないが、城下町徳島の食文化を探る上で重要だ。
「白醤油切手版木」徳島城博物館蔵
参考文献
『語源・由来 日本料理大事典』上巻、ニチブン発行、2000年
中村幸平著『新版 日本料理語源集』、旭屋出版発行、2005年
林玲子・天野雅敏編『日本の味 醤油の歴史』、吉川弘文館発行、2005年
根津寿夫「白醤油切手版木」(毎日新聞徳島版「阿波歴史の華 城博学芸員ノートから」2011年2月16日)
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