とくしまヒストリー ~第15回~
「二軒屋町」 -城下町徳島の地名3-
城下町徳島の南の玄関口にあったのが二軒屋町。阿波五街道と呼ばれた官道の一つ、土佐街道沿いに、江戸時代中期に成立した新興の町人地だ。
城下町の範囲は、東は安宅渡し場、西は佐古二本松、北は万福寺、そして南が勢見ケ鼻とされたが、江戸時代中期以降、城下町は拡大の一途を辿った。そこで生まれたのが、「郷町」と呼ばれた新興の町人地だ。郷町(ごうまち)とは、郡(こおり)町とも呼ばれ、城下の本町(ほんまち)に対して郡奉行(のち郡代)管轄下で店舗を構え商業を許され町を形成した場所だった(『阿波近世用語辞典』)。郷町は屋敷の年貢と夫役を免除された。城下町徳島近辺では、淡路街道沿いの助任郷町、伊予街道沿いの佐古郷町、福島築地にできた福島郷町、そして土佐街道沿いの二軒屋町が、四郷町と呼ばれ存在した。他の三町は、既存の町に沿って外側に発展していったが、二軒屋町だけ新町の東から離れて成立した。この町だけ名前に郷町が付いていないのも興味がもたれる。
なお城下町徳島以外にも郷町があった。地方の郷町は、池田村大西町(三好市)・脇町(美馬市)・川島町(吉野川市)・市場町(阿波市)・小松島浦郷町(小松島市)・富岡町(阿南市)などである。
二軒屋町の町名は、その名のとおり、古くは人家が2軒しかなかったからという(「阿波志」徳島城博物館蔵)。ユニークな町名だ。しかし、江戸時代前期こそ人家が少なかったが、時代が下るにつれて家数が飛躍的に増え、江戸時代後期には230軒ほどになった。だから、二軒屋町の名前は、城下町徳島における新興商業地の代名詞と言えるだろう。
二軒屋町の名前が史料に現れるのは17世紀の後半のことだ。紙の専売権を有していた紙屋町からの訴えで、佐古・富田・助任・二軒屋の郷町において紙の売買が禁止された(『藩法集3徳島』No.590)。この一件は、城下町の外にも町場が誕生し、藩はそれを郷町として認識していたこと、郷町での紙売買が既得権(専売権)を持っていた紙屋町を脅かすまでに成長していたことがうかがえる。既得権を有していた内町などの商人たちは、郷町の商人を競争相手と認識し始めたことであろう。
四郷町の町場化は著しく、元禄6年(1693)には町方に編入され町奉行支配となっている。この時点の四郷町の家数は、二軒屋町は61軒、佐古郷町が112軒、助任郷町29軒、福島郷町は3軒であった。二軒屋町は江戸時代中期には堂々たる町になっていたことが分かる。ただし、四郷町は元禄10年には再び村方に戻された。
二軒屋町は、その後も順調に発展を遂げ、寛政元年(1789)には家数217軒、人数749人までに増えた(「御巡見使様御用三郷町家数人数相改指上候控」徳島城博物館蔵)。同4年、四郷町は再び城下町に編入された。当時、郷町は繁栄し、内町や新町、福島町、助任町、佐古町といった本町を衰微させるほどであったという(「仕置所ニ而為書抜候品書集置帳」国文学研究資料館蔵)。これ以降、四郷町は町奉行支配下に置かれたのである。
郷町は本町とは異なり、もとは村であったので、土地は郡代支配で依然として「村」、家屋と住民は町奉行支配の「町」なのだ。このように複雑なあり方に至ったのには理由がある。村は生産地で年貢を負担する場所であったが、町は年貢を負担しない。人家が集まり町場化したからといって、藩はたやすく村を町にすることはなかったのだ。こうした事情から郷町は、土地は郡代支配の村、家屋と住民は町奉行支配の町となったのだ。
二軒屋町の家数は実に100倍以上、佐古郷町も伊予街道沿いに鮎喰川の土手まで伸びたが、郷町の伸展はそのまま城下町徳島の発展を物語っている。徳島市は市制の施行された明治22年(1889)には全国で第10位の人口を誇る大都市に成長していたが、その要因の一つとして、二軒屋町を初めとする郷町の躍進をあげることができそうだ。
「二軒屋町内図」徳島城博物館蔵、明治12年(1879)~17年(1884)
参考文献
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
高田豊輝氏著・発行『阿波近世用語辞典』、2001年
根津寿夫「郷町二軒屋町の成立と展開―近世都市徳島研究序説―」、『地方史研究』328号、
地方史研究協議会、2007年
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