赤い夜空:児島 忠義
最終更新日:2016年4月1日
徳島市鷹匠町 児島 忠義
眉山のふもと、伊賀町にある八幡神社の、神社には珍しい随神門をくぐり抜けると、右側に数十段の円すい台形の青石段が目に入り、その上に八幡神社本殿が鎮座している。子供の目には石段も随分高く見え、遊び場として格好のロケーションであった。今でもその風景は絵になり、そこで遊んだ昔が懐かしく思い出される。本殿の左側に水神社、稲荷神社と続き、山すそには竹林がある。その竹林の中で防空頭巾をかぶり、水に浸したガーゼを口にくわえて、孟宗竹の根元の岩肌にへばりつくようにうずくまってガタガタ震えていた。あまりの恐怖心で喉がカラカラに渇き、水を飲もうと思っても、手が震えて水筒の口からは飲めなかったからである。
今から六十五年前の太平洋戦争末期、昭和二十年七月四日未明の徳島大空襲のときである。米軍のB29爆撃機一二九機による二時間に及ぶ焼夷弾爆撃で、徳島市内はほとんど焼け野原となった。そのとき私は七歳で新町国民学校二年生、当時の情報網であるニュース映画や絵本、オモチャから得た軍事知識のみではあるが、れっきとした軍国少年のつもりであった。まだ疎開もせず鷹匠町に残り、町内会主催の消火バケツリレーや手押し式消防ポンプによる防空演習を頼もしく思いながら見ていたものであった。だが、六月二十二日には警戒警報後まもなく、米軍の艦載機の爆撃による一発の爆弾が、ヒュー・シュー・ザアーという音と共にドカンと私の家の二軒隣の庭に落ちた。我が家の壁は爆弾の破片で穴だらけ。家が傾いたが、父は近くの軍需工場の徴用で不在。居間でラジオのニュースを聞いていた母と私は幸いにもケガもなく無事であった。一瞬の間の出来事でもうもうたる土煙の中、何が何だか分からず右往左往するばかりで、恐怖心はあまりわいてこなかった。
しかし、七月四日の焼夷弾による空襲は時間が長く本当に怖かった。夏の夜空に散らばる赤い花火のような焼夷弾がゆらゆらと、まさに頭の真上に落ちてくるのを、怖いもの見たさに、わずかに開けた目の隅で上空を見ながら空襲の間じゅう恐怖心で震え続けていた。八幡神社の御神力か、消えない赤い大きな花火は風に流され、竹林にも境内にも焼夷弾は一発も落ちず、父母共ケガもせず無事であった。我が家と家財一切は全焼であったので、夜明けとともに着の身着のまま山伝いに小松島の親戚に歩いて疎開した。長時間の空襲による恐怖心はその後トラウマとなり、中学生になるころまで、あの蚊の鳴くような嫌な低音のブーン・ブーンという爆音と共にB29爆撃機がよく夢の中に出てきたものである。
まもなく昭和二十年八月十五日、終戦の日を小松島で迎えた。かつての軍国少年の心意気はどこへやら。子供心に、「やれやれ良かった、これで助かった。戦争はもうこりごり。これからは命を大切にしなければ。」と変に大人ぶった気持ちになったものである。
戦争は絶対にあってはならない。みじめな思いは二度としたくない。
あれから六十五年間、日本は平和であり、繁栄を続け、私も数年前に無事定年を迎え、平和な日本の年金生活を楽しんでおります。平和であることは本当に有り難いことです。
最近、八幡神社に参拝したとき、境内は昔のままで円すい台形の青石段とその上の本殿、左側の奥にある竹林を眺めているとふと、徳島空襲のときが思い出され、つくづくと現在の平和な時代の有り難さに感謝の念がわいてきました。
世界の平和を祈りつつ・・・
注)子供のときのことゆえ、記憶違いもあるかも知れず悪しからず。
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