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忘れられない 戦時中の「逃げろっ!」の声:小椋 健司

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市蔵本町 小椋 健司

 七月の空襲の日が来ると思い出されるのは――おじさんだ。彼は大阪で住んでいたが、昭和二十年春、第一次の空襲で焼け出され、別の町で再び空襲にあい、命からがらリュック一つで郷里木屋平へ帰るべく徳島まで来たが切符が買えず、買えるまでの間、親戚の私の家に身を寄せていた。歳は三十代の前半くらいか・・・。この年、日本のほとんどの主要都市が空襲を受け、特に東京、大阪の空襲は数回にわたり、多数の死傷者が出ていた。
 そんなときの七月三日夜中から四日にかけて、徳島も空襲にさらされた。
 「空襲警報、警戒警報」と情報が混乱する中、佐古から見た東の空は真っ赤に燃え上がっていた。うなるようなB29の爆音。ザーッ、ピューッという焼夷弾の落下音。その都度、火は大きく近づいてくる。向かいの家が燃え上がった。炎は屋根を吹き抜き、火の粉は空中で乱舞しながら、道に、我が家に降りかかってくる。二軒隣も焼け始めた。私はとっさに防火用水の水をバケツにくんでは玄関の雨戸、隣家との境のしとみに向かって水を掛け始めた。横を「タイヒー、タイヒー」と叫びながら、日ごろ威張り返っていた警防団員が走り去った。必死で水を掛け続けている私に「何をしてるんだっ。逃げろっ!早くっ。」とおじさんが。「エッ?」まだ家は焼けていない。当時私は陸士、海兵を目指し勉強していた旧制中学の軍国少年。「逃げろっ!」はすごい衝撃だった。しかし火はますます近づいてくる。反論する暇はない。
 バケツを捨て裏山へと走り始めた。だが道は炎でふさがれていた。眼前に迫る劫火こうかは私から考える余裕を奪った。佐古駅へと向かった。そこには軍が造った大きな壕がある。心にゆとりができたのか気が付くと人影は全くない。走っているのは私達一家だけ。取り残された孤独感と、いま逃げているんだという慚愧ざんきの思いが頭の中でゆらいでいた。
 壕の前は既に人でごった返している。「入れて下さーい。」「入れろっ。」壕の入口に仁王立ちの警防団員が「ダメだっ。ここはいっぱいだっ。」と手を振っている。私の後からも人は増えるばかり。おじさんは壕には目もくれず、私の手を握り、どんどん先へ走る。私もついて走った。吉野川を目指して。せまい道は人でいっぱい。皆、吉野川に向かって急いでいた。その上にも焼夷弾は不気味な音をたてながら落下する。前で、横で、直撃を受け、火を吹きながら倒れる人。だが足を止める者はいない。人波に押され流されつつ吉野川の堤防へ着いた。振り返ると全市は猛火の海。炎は空を真っ赤に焦がしていた。「助かった。」という実感が初めてわいた。
 彼は必死に消火する私に「逃げろっ!」と怒鳴り、防空壕に目もくれず走り、助かった。後で聞くと、あのとき壕に逃げ込んだ人は全員が酸欠と熱気で亡くなったという。あちこちの壕でもそんな話が残されている。バケツ消火や防空壕が、物量空襲の前にはいかに無力なものであるか。二度も大空襲の中を生き延びた彼の体験からの叫びだった。戦争中に「逃げろっ!」の声。今も耳に残っている。もし、あの声に従っていなかったら、今の私はない。

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