自分の身は自分で守る
最終更新日:2016年4月1日
身体一つが全て
住所:徳島市助任橋3丁目
当時住所:現住所と同じ
地震を体験したのは、現在の場所で、奥の間は当時のまま残っている。昭和25年に、現在の家を建て増しした。当時、私は十五歳で、両親と妹との4人家族であった。揺れ始めは、寝ていたので覚えていないが、親に起こされてから後の揺れは覚えている。「地震はどこで揺っても同じだから、ここで家族一緒にいよう」と、外には飛び出さなかった。
津波については、近所の家の井戸水が引いたのを見た人たちが「津波がくるぞー」と言って慌てていた。しばらくして、警防団の人が「津波が来るおそれがあります。気をつけて下さい。」とメガホンのようなもので言いながら回ってきた。周辺には戦後のバラック建ての家があり、そこに住んでいた近所の人は、おにぎりなどを作って、城山に避難した人もいた。そんな中で、私の家では、母が「空襲で火攻めにあい、今度は津波で水攻めやな。けど、戦争をくぐり抜けたことさえ不思議やから、あわてんと家族で一緒に家にいよう」と言って、避難はしなかった。地震が収まってから、父に、「今日は仕事を休むと言ってこい」と言われ、妹と二人で、父の職場へ伝えに行ったのを覚えている。私は当時、両国にある美容院で見習いをしていた。父からは「こんな日に客は来んぞ」と言われたが、家にいても仕方がないので、いつもより少し遅れて出勤した。父の言葉に反して、店にはたくさんの客が来ていた。近くの水商売の人たちで、「同じ死ぬんだったら、きれいにしてから死にたい」と言って、賑やかに集まっていたのを強烈に覚えている。その頃の粋なお姉さんの心意気と、身体一つが全てであるという人の強さの原点を感じた。また、美容院には、同じような仲間が集まってくるという安心感もあったのではないかと思う。私はその日、1日中仕事をしていた。
後になって母から聞いたが、水道の水が止まって近所の井戸水をもらいに行ったり、近所にあった味噌屋の蔵の壁が落ちたので売り物にならない味噌を分けてもらったりしたらしい。戦後の配給のあった時代で、地震の被害より戦後の復興の方が大事な時代だった。
もし、今度このような地震が来たとしたら、「身体一つが全て」と思うことが、生き残るための強さだと思う。
自分で準備できるもの
住所:徳島市応神町吉成字轟
当時住所:現住所と同じ
朝方大きな揺れで目が覚めました。揺れの合間合間に戸を開けて外へ出ました。母親達は私より早く大戸のくぐり戸から出ていました。みんな寝ている場所が違うので、それぞれ自分達の近い出口から出たのです。揺れはひどく5~6分は揺れたでしょうか。立っておられないぐらいの横揺れで舟に乗っているような感じでした。納屋を見ましたら、軒先が1mぐらいの差で左右にひねりながら揺れていました。当時の家は草やぶきの屋根でしたので壁が落ちることも倒れることも無かったです。ご近所では、全壊が1軒、半壊が2軒、少し壊れたのが10軒ぐらいあったように思いますが、幸いにもケガをされたり亡くなった方はいなかったと思います。地割れは無かったのですが、青い砂が所々吹き出て液状化現象がありました。津波は1週間後に県南の方であったということを聞いたぐらいですから、ここでは水の被害はありませんでした。
この体験で思ったことは、家も基礎が大事であるということです。骨組はしっかりと、角は早いからといってL字型の止め金にせず、費用は変わらないのですから切り込みの方にしたら良いと思います。それと、最低限度自分達で準備できる物、飲み水、乾パン、懐中電灯、携帯ラジオ等は用意しておいた方が良いと思います。
九死に一生を得る
住所:徳島市北沖洲一丁目
当時住所:徳島市中洲町2丁目
私は当時中洲に住んでいましたが、地震時は船の中で寝ていました。前日の夜遅く帰って来ましたので、そのまま船の中に泊まっていたのです。ギシギシという音で目が覚めました。急いで丘を見ましたら二階建ての家が横揺れに揺れておりました。まさか津波が来るなどと思ってもいませんでしたので、またそのまま寝ていましたら、プッツンと大きな音と共に船を繋いであった綱が切れたようでした。川を見ますと川底が見えるほど引き潮によって船が引かれて綱が切れたのがわかりました。
すぐにゴォーという音と共に見る見るうちに水が増えてきて、私を乗せたまま船は流されてしまいました。どうすることもできず、かちどき橋で船の上の部分がひっかかるまで、なすがままに流されていました。他にも繋いであった船が流されて、かちどき橋でだんご状態になり、次の波の押し寄せる力で船体が回転をしだしました。
私はかちどき橋が落ちるのではないかと不安になり、船に繋いであった小さな舟に飛び降りました。しかし舟がすぐに波に覆われ沈みそうになったのです。私は急いで、また大きい船に飛び乗り小さい舟を見ましたら、繋いであった木材が大量に流れて来て舟に当たって遂に沈んでいきました。あのまま小さい舟の方でいたら私の身体も沈んで、材木と舟の間に挟まって溺れていたかもしれません。しかしほっとしたのもつかの間、今度はこちらの大きな船も押し寄せる波によって他の船が追突してきて壊れそうになりました。もう駄目だと思ったときに、3トンのはしけ船が私の船に突っ込んで来たので、そこへ綱を伝って上がり、踏み台にして、かちどき橋の上にやっとの思いでのぼり助かりました。九死に一生を得るとは、このことを言うのではないかとつくづく思いました。
このときの教訓として、慌てないで落ちついてよく考えて行動することが大事だと思いました。
自分の身は自分で守る
住所:徳島市国府町早淵
当時住所:徳島市明神町2丁目
下からものすごく突き上げて来て、そのうち横揺れが凄くなりました。恐ろしくて足がすくんでうまく歩けなかったのもありますが、戸が開けられなくなっていて外へ出ることができませんでした。だから家族で布団をかぶってかたまっていました。揺れが収まってから近所の人達と裏にある井戸を見に行きました。昔から井戸の水に変化があるときは、津波が来るかも知れないと聞いていましたので見に行ったのです。幸いにも水位に変化は無かったので皆でほっとしたのを覚えています。揺れが大きかった割には、倒れた家も無く、ケガ人も無く、その他にも被害は無かったように思います。
またもっと大きな地震が来るかも知れないと言われていますが、体験した者から言いますと、色々な物を用意していても、そのときになればきっと自分の身を守るのに精一杯で、外に何かを持って逃げることはできないと思うのです。だから、とにかく逃げて自分の身は自分で守れということでしょうか。
自分自身を守るのは最低のルール
住所:徳島市末広四丁目
当時住所:徳島市安宅一丁目
当時十六歳であまり覚えていないのですが、コンクリート製の防火用水に半分ぐらいしか入っていなかった水が外に溢れ出ていたのと、家の雨戸が全部外へ落ちたこと。それにグラグラと立っていられないほどの揺れ方に恐怖感を抱いたことは覚えています。多分停電でラジオも聴くことができなかったのではないかと思います。津波は1年後に知りました。あのときにはわからなかったのですが、今思えば井戸水がいつもより減っていたように思います。
困ったことは情報がなかなか伝わって来なかったので不安が大きくなったことだと思います。現在は情報が早いから若い人達は安心しきって、なかなか訓練にも参加していないようです。もっと行政が積極的に呼びかけないと、もしものときには大変なことになるでしょう。それに阪神大震災のときに思ったのですが公務員は自分のことは後まわしにして市民を助けるべきだと思います。公僕なのですから。自衛隊ももっと速く出動すべきですし、政府はきめ細かい対策を考えるべきです。
私は災害時のために靴箱に懐中電灯と携帯ラジオ、下の倉庫には洋服を少々、乾パン、水を常時用意しております。これは自分自身を守る上での最低のルールだと思っています。
逃げる時は必ず頭を守ること
住所:徳島市川内町榎瀬
当時住所:徳島市北出来島町1丁目
当時私は、戦災に免れた築40年の長屋に住んでいました。揺れで目が覚めて家族で外へ出ました。父が「かぶって行け」と言ったので座布団をかぶって出ましたが、揺れは長くて立って歩けないほどの大きさでした。姉と私が先に出て、後から兄と両親が布団を持って出て来て、私が寒さと恐さとで震えていましたのでかぶせてくれました。近所の人達と大きなカキの木の下で揺れが収まるまでおりました。
そのうちに「水がひっきょるぞ~津波がくるぞ~」と言う声が聞こえて来たので、父が「危ないから離れるな」と言ったのですが、好奇心の強い私はこっそり前川橋の下を見に行きました。見ると川の中心部が掘られて深くなっているのがわかるほど水が無くなっていました。水位が上がって来たときは親の傍へ戻ったので、どのくらい増えたかわかりませんが溢れてはきませんでした。地震によっての被害は屋根が少し傷んだ程度で殆どありませんでした。
戦争、地震と体験してきて身に付いてきたことは、逃げるときには必ず頭を守るということです。我が家ではいつも座敷に座布団を置いていますし、急なときに奥へ取りに行かなくていいように、玄関マットは夫と二人分の二枚敷いています。
自然災害は運次第
住所:徳島市鮎喰町1丁目
当時住所:徳島市北佐古6丁目
私は当時十六歳で北佐古6丁目(現在の佐古駅の近く)に住んでいました。元々助任町に住んでいたのですが、戦災に遭い、借家にしていた北佐古の家に引っ越していました。そこは6軒の木造二階の長借家で、私は母、兄、妹の四人家族で一番西側の家に住んでいました。地震が起こり、一階で寝ていた私は家族といっしょに広場へ逃げました。夜が明けて地震がおさまってから家に帰ったのですが、その後も一週間ぐらい揺れ返しが続きました。
この地震によって、共同で使っていた井戸水が止まり、緊急に、水道をひき、軒も傾いたので、修理を要しました。しかし、幸いにもけが人はでず、火事や山崩れ、津波も起こりませんでした。
私は昭和の南海地震を体験して、地震などの自然災害は運次第だと考えています。例えば地震が起こって、地割れが家の真下にくれば、どんなに丈夫な家でもひとたまりもないでしょう。逆に、老朽化が進んだ木造の家でも何一つ被害を受けない場合もあると思います。けどただ運にだけ頼るのではなく、ラジオ、懐中電灯、電池の用意など自分達でできる最低限のことはしていく必要があると思います。また、地震が起こったとき、物の落下に注意したり、逃げ道を確保するといったことも重要だと思います。
自分の身や家族は自分で守る
住所:徳島市飯谷町居内
当時住所:現住所と同じ
地震のことは、はっきり覚えている。今も住んでいる築80年の木造二階建て本瓦のこの家で地震を体験した。当時うちの家族は、祖父、両親とふたりの兄弟、そして朝鮮から引き上げてきて疎開していた親戚四人の九人家族だった。その日私は、二階で寝ていたが、すごい揺れで目が覚め、無意識に布団を頭からかぶって、急な階段を一段飛ばしで駆け下りた。そして、玄関から夢中で外の庭に飛び出した。布団をかぶったのは、戦時中、空襲警報などで避難する際、布団をかぶって逃げていたので、身の危険を感じたときの条件反射のようになっていた。私以外の家族も庭に飛び出して右往左往していたが、父だけは、「そう簡単に家は壊れんでよ」といって、外に出ることは無かった。庭に出てからも、揺れ続いている中、何か音がするのでその方向を見ると、「ビシッ、ビシッ」と火花を散らして、木製電柱の電線がスパークしていた。また、向かいに見える山の方からは、「ゴトッー、ゴトッー」と激しい音がするので目をやると、採石場から、岩のように大きい石が次々に転げ落ち、その石と石がかち合っては火花を散らしてそこら中が赤く染めたように見えていた。それにも増して驚いたのは、山の尾根が峠に沿って、10~20cmほど日浦側の方にずれて、段差ができ、山の断層が見えていたことだ。地震の威力を目の当たりにした思いだった。また家の変化といえば、当時、汲み取り式のトイレの水が、3分の1程飛び出していて、衛生上困った。とはいえ当時、十五歳の少年だった私は、日頃、見ることの無いこれらの光景を恐怖半分、興味半分に感じていたかもしれない。実際に、家や近所、山崩れなどの直接的な被害を受けていなかったからだろう。ただひとつ、被害というと山の谷水をひいていた「父ご自慢」の井戸がこの地震以来、年々水位を減らし、数年後にはとうとう枯れてしまったことだ。父にとっては、大変なショックだったようだ。山の断層がずれ、水の経路もずれてしまったせいだろうと思う。
この地震を体験して言えることは、「自分の身や、自分の家族は、自分達で守らなければならない」ということだ。そのためにも、日頃から災害に対して各自で備えていなければならないと思う。
自分の足で逃げること
住所:徳島市南佐古七番町
当時住所:現住所と同じ
今の家は、建て替えているが、地震が揺ったときも、この場所で木造二階建瓦ぶきの家に暮らしていた。今とは違い、家の東西は、ほとんど田んぼばかりで、何もないところだった。地震の日、一階の奥の部屋で寝ていたが、揺れで目覚めて飛び起きた。すぐに収まるだろうと思っていたが、思いに反して、ものすごい横揺れが続き、危険を感じて玄関から外に飛び出した。庭に出ても、まだ揺れ続いており、今では家の駐車場になっているところにあった柿の木が「ゆっさ、ゆっさ」と大きく揺れていたのを、印象強く覚えている。1分近く揺れたように思う。家族全員、庭に避難して「無事、脱出できたなー」と言ったことを覚えている。揺れが収まり、少ししてから家に入ると、台所が地震のために傾斜してしまい、戸が歪んで開きにくい状態になっていた。そのため、地震後、暫くしてから修理をした。また、その頃、井戸を使っていたのだが、「井戸の水位が変化した」と家の者から聞いた。地震以降も井戸を常用していたが、水が出にくくなってしまっていた。火事や山崩れなどの被害は聞かなかったが、現在の徳大薬学部前から田宮川橋に向かって少し入ったところに3~4階建の「乾繭(かんきん)倉庫」という繭の保管庫があって、そこの直径1mあまりの高い煙突がポッキリと折れてしまったのを自転車で通りかかったときに見た。
津波は、翌日の新聞で「浅川」の被害を知った程度で、ここらでは、津波の影響は無かったと思う。結局、私の家では、大きな被害やけが人が出ることも無く、日頃から信仰厚くしていた両親のお陰ではないかと思ったりもする。
今後、大きな地震が来たときに備えて、耐震の家が一番良いと思うが、そのためには、費用がかかってしまい「そうもいかんでーな」と、苦笑いしてしまった。まず、できることからと言えば、健康管理に気を付けて、いつでも自分の足で迅速に避難できるようにすることだ。
今の時代は外に出るのが危険
住所:徳島市八万町千鳥
当時住所:徳島市秋田町4丁目
当時十四歳だった私は、戦災で家をなくしたため、秋田町にある父の兄の家に住んでいた。木造二階建て瓦ぶきの家だった。地震のあったとき、二階で寝ていたが、揺れで目が覚めて飛び起きた。階段を駆け下りて、雨戸を開けようとしたが、あまりの揺れのすごさに思うように雨戸は開かなかった。どうにか戸を開けて、皆で外に出た。揺れが収まってからも、また地震が襲ってくるのではないかと、20~30分は外に避難していた。あのときの「横に大きく揺さぶっているシルエット」が、今でも脳裏に鮮明に甦って来る。とにかく恐ろしくて、パニック状態だったと思う。
地震後、暫くして外では「津波が来るぞー」の声とともに、津田の方向から大八車に荷物を積んだ人たちが、大勢、山の方に向かって逃げてきた。新町川では、川底が見えるほど水が引いていたという話を聞いた。私の家や近所では、被害や人災は記憶に無い。当時の家の周りは、戦災で一面、焼け野が原になっていて、ぽつぽつとバラックが点在していた状況だった。そのため、逆に被害が無かったのだと思う。
現在のように、家や色々な建物が密集している状況では、すぐに外に飛び出してしまう方が、危険が一杯だと思う。外に出るより、家のがっちりした机の下や狭くても四角四面にしっかり囲われた風呂場などに身を寄せる方が安全であると考えている。また、寝室には、倒れる恐れのある物は、極力置かないように日ごろの対策として留意している。
強い精神力と体力
住所:三好郡池田町字マチ
当時住所:徳島市南矢三町一丁目
当時、木造二階建瓦ぶきの家に、家族十一人で暮らしていた。地震が起きたとき私は、二階の部屋でまだ寝ていたが、上下の激しい揺れで目が覚め飛び起きた。そして、真っ暗がりの中、下に下りて本能的に戸を蹴破って外に出た。どの様にして外に出たのか記憶は無い。東の線路沿いに、帯のような青い光りが伸びていた。その後も数度となく余震が起こり、夜が明け始め、徐々に白じんで周囲が見え始めると余計、恐怖感を覚えた。
津波は、午前10時頃にあったと思うが、水が垂直に立った状態で海から押し寄せ、新町川の川の水も、段になって一気に流れていた。そして、津波と共に、丸太がさかのぼっていた。押し波、引き波は、数回繰り返されて次第に力を落としていった。この地震による近隣の家屋の倒壊などは無かったようだ。私の子供時代は、戦争があっていつも避難したり、自分の身は自分で守ろうとして機敏な行動と機敏な判断をして物事にも動じない精神力が養われていたと思う。また、あの頃の子供は、一日中外に出て遊んでいて、遊びながら自然に体が鍛えられていたので、いざというときにも対応できる体力があったと思う。
今後、また大きな地震が起こったとき、今の子供達やその親達は、とっさの判断で対応ができ、その上、充分な体力を持ち合わせているのかと不安になってしまう。
一人一人が避難場所の確認を
住所:徳島市北矢三町四丁目
当時住所:徳島市福島一丁目
我が家は石井町でしたが、あの日は福島小学校で当直をしていました。朝4時過ぎに揺れましたので飛び起きました。福島小学校は戦災で焼けてしまっていた校舎を、当時応急処置で平屋であったのを本格的な木造二階建てに改築中でした。壁もできていなくて骨組だけでしたので、大きく揺れたときは倒れないかと心配をしましたが大丈夫でした。私は中庭の真ん中まで逃げましたが、そこに大きな丸池がありまして水を溜めていたのですが、それが揺れる度にバサ~バサ~と溢れておりました。
今なら学校は避難場所となっていますが、当時は平屋校舎でバラックだったので渭東地区の皆さんは城山へ逃げていました。これは誰かの「こんな大きな地震なら津波が来るぞ~」の声で皆が荷物を大八車に乗せたり、持てる物は持って道がいっぱいになるほど小走りに城山に向かっておりました。津波の影響で福島川の水位が、最高時に道路すれすれまで来ていましたが、家屋への被害はありませんでした。
今後の教訓としては、津波については室戸台風以後、水に対しての対策はできていますので大丈夫だと思いますから、個人個人の心構えと避難場所の確認が必要だと思います。
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