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情報発信と周知徹底

最終更新日:2016年4月1日

浅川の記録を教訓に

住所:徳島市中常三島町1丁目
当時住所:徳島市寺島本町

 私の家は、現在の徳島駅前ポッポ街入り口あたりにあったが戦災で失い、当時は、父の友人が所有していた元町にあった土蔵に間借りしていた。地震当日は、土蔵の2階に寝ており、激しい揺れで、とにかく逃げなければという思いで階段を滑り降りた。土蔵の階段は勾配が急で、階段を滑り降りたときに、たまたま私のお尻にできていた出来物が潰れて痛かったのを覚えている。土蔵は、戦災にあっても残っていただけあって、直接地震の被害はなく、庭にあった灯籠が転げ落ちた程度であった。近所の家は、ほとんどがバラックで、軽い家であったことが幸いし、崩れるほどではなかった。
 津波については、「津波が来るぞー」という男の人の声を聞いて、近所の人たちと内町小学校へ、米櫃とふとんを持って避難した。当時は、「となり組」の意識が残っていて、近所の人たちとのコミュニティが上手く図れていた。避難は1時間くらいで解除され、後は通常の生活に戻っていた。しかし、正確な情報が入ってこないことが不安であった。
 今後の地震対策としては、家具等の転倒防止、避難場所の確保、正確な情報の入手を心がけることが必要であると思う。数年前、ビデオを制作している私の二男が、徳島県の事業で南海地震のビデオを作った。ビデオは各市町村や小中学校にも配付されているが、当時、直接被害を受けた浅川周辺の記録を教訓に、地震や津波の怖さとそれに対する備えの重要性を伝えて行くことが大切であると思う。

行政からの働きかけ

住所:徳島市佐古二番町
当時住所:徳島市佐古五番町

 戦災で家を焼かれましたので物置を建てて仮住まいをしていました。朝早くに大きく揺ったので急いで外に飛び出しましたが、歩くことができず地面を這って逃げました。揺れは凄くて長かったのですが被害は、家の中の物が落ちていた程度でほとんどありませんでした。しかし本当に恐ろしかったです。
 私は阪神淡路大震災のときからリュックに身の回りの物や少しの食料を入れています。常日頃からこういう用意はしておいた方が良いと思うのです。それと地震時には火の始末が一番だと思います。
 南海地震からも阪神淡路大震災からも時間が経って人々の危機意識が薄れて来ていますから、行政から町の掲示板等に「地震時にはどうすべきか」を箇条書きにして皆に知らせていくと、みんなの意識も高まるのではないでしょうか。

地震対策をはっきりと

住所:徳島市津田浜之町
当時住所:徳島市津田町3丁目

 朝早くに「なんかおかしいなぁ~」と思いながらも布団の中でいました。そのうち凄い揺れになったので両親に起こされました。起きてすぐ外へ飛び出しましたら、電線が切れて真っ暗だったのを覚えています。私の家の裏は畑だったのですが、そこに大きなクスノキがあって、根が張っているから安全だと思ったのでしょうか、親が「そこへ行きなさい」と言うので兄弟と近所の子供達と一緒に行きました。木の元へ着いて地面を見ていると大きく揺れて波打っていました。これは体験した者でないとわからないと思いますが、凄く恐ろしかったのを今でもはっきりと覚えています。津波に関しては老人の方に「井戸水がゴォ~とゆうてなくなんりょる、津波が来るかも知れないから子供達は山へ逃げるように」と言われましたので無我夢中で逃げました。揺れは収まっていたのですが恐いという気持ちがいっぱいで、どんなふうに山の頂上まで逃げたか覚えておりません。上から見ていますと、白波がスーと引いてまた増えたりしていましたが、山上から見ていたから、そのときに津波が来ていたかどうかわかりませんでした。後から聞いたのですが国道旧55号まで水が来たらしく船も上がっていたらしいです。しかし幸いにも我が家や近所には被害はありませんでした。
 教訓と言われても地震の規模も状況も違うわけですから、正直に言って訓練していても役に立つのかどうか疑問に思っているぐらいです。個人ができることには限度があります。行政の方からも地震対策をはっきり出して欲しいものです。

避難場所の周知徹底

住所:徳島市下助任町2丁目
当時住所:徳島市川内町榎瀬

 二階で寝ていたのですが、揺れで目が覚めて慌てて下りて行き、揺れの最中か収まったときかは忘れましたが家族全員で道路に逃げました。もう一度来るかもしれないと、1時間ぐらい川渕の広場で近所の人達とおりました。余震は小さいのが何回かはありましたが、最初ほどの大きな揺れは無かったです。地割れも液状化現象も無かったし、津波もラジオで聞いて知ったぐらいですから影響はありませんでした。我が家でも土壁にひびがいったぐらいでその他は大丈夫でしたしケガもありませんでした。ご近所では、道を挟んで向かいの三軒長屋の全部が全壊して、そこに住んでおられた奥さんが亡くなりました。「寝ていた所に多分タンスが倒れてきて、身動きが取れなくなったときに家が倒れて圧死されたのではないか」と近所の人達が話しておりました。当時隣組のようなものが残っていて、全壊した家や半壊の家を助けに行ってあげていました。それを見て改めて地震の恐さを知りました。
 近い将来もっと大きな地震が来るかもしれないと言われていますが、タンスや動く物は固定して、避難場所は常日頃から考えておくことが重要だと思います。ここの町内では集まりのときに避難場所を周知徹底しております。

確かな情報提供を

住所:徳島市南昭和町6丁目
当時住所:徳島市弓町2丁目

 戦災を免れて昔のままの本建築、瓦ぶき木造二階建ての二階で家族三人が寝ていたときに地震に遭いました。「ガシャガシャ」という音と共に上下動に揺れ、天井が鳴っているようでした。家が倒れるかもしれないと思い、咄嗟に「暫らく我慢しとれよ」と言いながら布団で祖母、妹を囲って私の身体でかばっておりました。暫らくして倒れそうにないので、三人で下りて逃げました。多分階段も揺れて下り難かったと思いますが無我夢中でどうやって下りたか覚えておりません。外に出てから、コタツを思い出し取りに中に入りました。余震はありましたが、逃げるほどではありませんでした。あくる日だったかどうか忘れましたが、周りの被害状況を自転車で見に行きましたら、近所では倒れた家はありませんでしたが福島の辺りに古い家が一軒倒れているのを見ました。大きな地震だったにもかかわらず被害が無いのは、横揺れではなく上下動だったからではないかと思っています。
 津波に関しては地震後すぐ「津波が大道まで来ている」というのが伝わってきて眉山へ逃げなくてはと思ったのですが、すぐにデマだとわかり何処へも行かず家におりました。デマは恐いですね、こういうときは避難場所も含めて確かな情報が早く欲しいものです。デマが人伝いに流れていって大きくなり、必要以上に恐怖が増し二次災害を起こしかねないからです。

防災マップを作って町内に配布

住所:徳島市南内町3丁目
当時住所:徳島市国府町府中

 戦災で焼け出されましたので国府に疎開していたときです。ひとつのコタツを真ん中にして回りに布団を敷いて皆で寝ていました。大きな揺れで目が覚めて一度は起きたのですが、当時私は旧制徳中の4年生で若かったのもありますが、眠くて「もうど~にでもなれ」という気持ちで寝ていました。家族の皆も寝ていたように思います。収まってから外へ出ましたら近所のみなさんも外に出なかったのでしょうか、同じように出てきたばかりの様子でした。
 不思議に思ったのは、朝早く暗いはずなのに人の姿がはっきりと見えたことです。何かの影響でいつもより空が明るかったのかも知れません。
 現在、町内会長と内町自主防災会の理事もしていますので、内町地区の防災マップを作って各家に配っています。災害のときにはきっと役立ってくれると思います。

シミュレーションによる対策を

住所:徳島市中前川町5丁目
当時住所:徳島市南末広町

 あの頃は、南末広町で木造平屋に親兄弟六人で住んでいた。地震のとき寝ていたが、「ドスンッ」という大きな音がして、目が覚めた。立つのも困難なほどの揺れで、縦揺れの次に横揺れが続いたと思う。非常に長く感じたが、実際は、20~30秒ではないかと思う。その間にどうにか雨戸を開けた。地震が収まった後、小雨が降りだしてきたが、そのとき私は玄関の外に出た。その後5分位したとき何か音がするので、私は、土手の上に上ってみたが、川水が沖へ流れ始めているのに気がついた。新町川河口の堰堤上の道路に行ってみると、その川の水が、音を立てて急速に沖に流され、川底が見える程に引いてしまった。その後、5分位経ってから、今度は、沖の方から、白波の先頭に流木などを従え、轟音を立てた津波が陸の方に襲来してきた。私は、この光景を一部始終直視した。それはそれは、恐ろしい様だった。
 津波の第一波は、水が引き始めて10分後くらいで、押し波、引き波の周期は、5分程度だと思う。津波から逃れるために、塩を作るときに使う、高さ10m程の濃縮台の屋根の上に皆で2時間位避難していた。近所の人達も同様に各濃縮台の上に避難していた。もう一度地震が来て、また津波が来るのではないかと、とても不安で恐ろしかった。
 結局、大きな地震は、1回で、そのときの津波は、2回ほどだったと記憶している。津波の後、川の水位が上がり、塩田にも湧水してしまい、塩田の全面に地割れを生じ、事業再開までに2ヶ月程度を要して、被害は大きいものとなった。家屋の被害や人災は無かったので、この点では良かった。
 今後、地震が来たときには、地形も川の状況も建物も当時とは違っているので、あのとき被害が無かったからと安心はしていられないと思う。地震が起こったとき、満潮時、大雨、台風などと津波が重なってしまったらという、最悪の条件を考慮して、シミュレーションを行うと、被害状況も把握できて、対策を立てられるのではないかと思う。最小限の被害にとどめるために、そのようなことを公的機関に強くお願いしたい。

マスメディアの情報に注意

住所:徳島市西新町2丁目
当時住所:徳島市南内町2丁目

 現在、写真店を経営してこの土地にいるが、住まいは、南内町2丁目にあった。地震は、木造二階建ての家の、二階で眠っていたときのことだ。大きな揺れで目が覚め、とっさに窓を開けたら、道路が波打つように揺れていたのを覚えている。すごい揺れだったが、外には出ず、家の中で地震の様子をうかがいながら、待機していた。家の周囲は、割合と中心地で、家もある程度建っていたが、倒壊したり、被害が出たようなことはなかった。地震後、水道が止まり、停電にもなった。停電にはさほど不自由はしなかったが、水が無いのには困った。それで、眉山の滝の水をポリバケツで汲みに行った覚えがある。それも、1日から2日で回復したように覚えている。新町川では、増水してギリギリまで水があったというが、私の家の周囲では、水の被害も無かった。
 その当時の、徳島市内の写真や、新聞の切抜きが不足しているということだが、今の私なら写真屋を営んでいることもあって、カメラ関係には、興味があり、一も二も無くカメラでいろんな状況を撮っておくだろう。その当時は、写したくてもそのカメラ自体を持つ家は、無かっただろうから。
 今では、テレビ、ラジオは各家庭に普及しているので、今後、大きな地震が起こったときなどは、マスメディア等の報道に注意して冷静に対応していくことが重要だと思う。また、避難地への準備も日頃から心掛けておくべきだと思う。

今後の地震に津波の不安

現住所:徳島市北沖洲四丁目
当時住所:徳島市北沖洲四丁目

 当時二十四歳で、木造平屋の茅ぶきの家で父母夫弟と家族五人が住んでいた。地震の揺れが「ガタガタ」とあり、止むのかと思ったが、家が「バリバリ」といい、庭に出ても「立ってもおれん」で、麦畑に行った。横揺れであった。余震が一日何十回も揺ったが、それはなんともなかった。地震のときは、沖洲海岸の松が揺れ、枝が下に向けて、しなっていた。井戸の水が50cmは下がったが真水の水脈であり大丈夫だった。土地も同じくらい下がったと思う。津波で海が「ゴーゴー」いっていた。沖洲海岸に堤防は当時なく、松原があり、砂丘があった。そこの岸に上げていた舟や網が沖に流され、舟は沖でひっくり返り、網はねじれてひっかかっていた。長い錨のロープの方が海底にかかり、舟は傷みにくいものであり、網も傷んでいなかったので、修理できた。津波で舟が押し寄せられてきており、私の家の南方200mにある西川という店のそばの松原近くまできていた。
 近所に断層があり、液状化の穴がいくつかあき、そこに、おじいさんの人が落ち込んでいくのを助けたりしていた。近所の家数も少なかったし、壁は割れて落ちていたのもあるが、大きな被害はなく、停電もなかった。消防団はあったが、特に動かなかったようだ。助かったことは、砂が海岸にたくさんあったことである。
 伝えたいことは、「津波に注意」「海へ出て行かない」「玄関の戸を開け、家の中でいないこと」「竹やぶに逃げる」などである。
 今考えていることは、(1)高い所に避難する。三階建てのところがいい。中央卸市場か農協か、どこか必要(2)薬など持ち出す物を手近におき、トレーナーをおいておく(3)病人を背中に背負って避難することなど。
 心配なことは、(1)堤防が古くなりテトラポッドで補強はしているが土が掘れて、決壊しないか(2)昭和36年の第二室戸台風のときにあったが、土手の内側から水が噴き出す恐れはないか(3)地盤が砂地なので、たまった水が、土の中や家の中に入らないように、畳などを敷き、崩れないようにし、むやみな流れや穴を掘らないこと等である。

自主防災活動を活発に

住所:徳島市名東町2丁目
当時住所:徳島市新南福島2丁目

 当時、私の家は木造二階建瓦ぶきで、祖父母、両親と私の五人で暮らしていた。家は、商売をしており、一階の半分は店舗だった。地震の揺ったときは、夜明け前で、まだ寝ていたが、親に起こされて地震を知った。すごい揺れだったが、ずっと家の中にいて、特に避難はしなかった。
 夜が明けて明るくなってから外に様子を見に行った。現在の福島新橋から公園になっているあたりの地域は、地場産業で木工所などが多く、川にいかだを組んで木材を積んでいた。私が見に行ったときには、津波の第一波の後だろうが、いかだが壊れ、川一面流木で一杯になっていた。そして、大人たちが、その流木を拾い集めていた光景を覚えている。当時の福島新橋は、木の橋だったが、壊れてはいなかった。津波は、押し波、寄せ波を数回繰り返していたと記憶している。幸い、家や近所での被害は特に無く、火事や山崩れが起こることも無かった。
 今後、大きな地震に備えて、行政だけでなく、市民も自ら防災意識を高める必要があると思う。そのためには、各家庭での防災に対しての日頃からの備えや、各地区で編成されている自主防災会の活動を今以上に活発にし、市民の参加も活発にすることが重要だと思う。

組織的な活動を活発に

住所:徳島市国府町西黒田字東傍示
当時住所:現住所と同じ

 あの頃、徳農(現在の城西高校)に通っていた私は、両親と兄弟姉妹の全員で十二人と共に暮らしていた。家は、現在も住んでいるこの平家で、今では瓦ぶきだが、当時は草やぶきだった。地震があったのは、皆まだ寝ている夜明け前だった。私は、揺れで目覚めたが、「そのうち収まるやろう」と思い、そのまま部屋にいた。けれど、自分の思いとは裏腹に、いつまでたっても収まりそうに無い状態に、さすがに身の危険を感じて庭に出た。その揺れは、大きいが、ゆるい横揺れで、とても長い時間揺れたように記憶している。家族は皆、玄関から既に庭に避難していた。庭に出ると、東の方に電線がスパークするような明るい光が見えた。その光は、電線のショート等ではなく津波の前兆のようなものではないかと思う。また、うちの庭で飼っていた犬が、地震が起こるずっと前から何か落ち着かず、「ワン、ワン」とほえていたのを覚えている。動物の優れた勘が、地震を察知していたのだろう。再度、大きな地震が来るかもしれない、と庭に2時間ばかり待機していたが、何しろ寒かったので家に戻って布団などを持ち出したことを覚えている。
 当時、村長をしていた父は、地震直後役場に赴いて、警防団などの組織と待機していた。その後、家に戻って見回すと、床の間のある10畳間のほとんどの壁が剥がれ落ちてしまっていた。また、家の西側にある納屋の地盤が掘れてしまって、西に傾いてしまっていた。よくよく思い返すと、大きな横揺れは「東西」に揺れたのだろう。納屋はもともとしっかりした基礎のもとに建っていた訳ではなかったが、地震の大きさを物語っていると思う。数日後に剥がれ落ちた壁は、業者に頼んで直したが、傾いた納屋は、崩壊すると危険なので、取り壊してしまった。庭には、井戸があったが、年々水位が下がっていった。
 今後の地震対策としては、市や県また、地域の自治体、各地区の消防団などがもっともっと災害に対して呼びかけを行い、一般の人々の意識を高めていく必要があると思う。加えて、組織的な活動を活発にして、実践、演習を盛んに実行して、いざというときのために備えておく必要があると思う。

自主防災組織の立ち上げ

住所:徳島市川内町大松
当時住所:現住所と同じ

 地震発生当時、子供同士で集会所に泊まりに行っていたときに地震があった。小学4年生だったこともあって揺れの印象は薄く、地震後親が心配してすぐに迎えにきたことを覚えている。集会所から家に帰ってくると、家の階段が地震により落ちていた。そのため、二晩くらいは当時風呂場のあった建物で寝泊りをしていた。
 また学校で道路の被害状況を見に行った。現在の川内中学校付近の道路沿い、主要地方道徳島環状線沿いの岡村工場付近の道路が陥没していたことを覚えている。今まで土手だったところが、地震による陥没で沼地のような感じになっていて通行できない状況だった。また地震後、井戸の水が「ガクーン」と減っていた。
 次の南海地震に対しては、飲料水や火事が発生したときのための初期消火として大きい貯水槽が確実に必要だと考えている。さらに現在、私は自主防災組織の立ち上げを試みようとしている。昔は消防団が各部落にあったが、現在では川内には一つしかなく、自主防災組織がその代替的な役割を担い、被害を少なくする上でも警察や消防だけではなく、町内での近所づきあいが必須となることを強調しておきたいと思っている。
 日ごろの備えとしては、私は阪神淡路大震災以来、飲料水や乾パン等を定期的に入れ換えている。

皆の意識を高めること

住所:徳島市津田浜之町
当時住所:当時住所と同じ

 その頃は、木造一階建て瓦屋根の家に両親と妹ふたりの五人で暮らしていた。地震のときは、皆寝ていたが揺れで目覚め、両親と妹達は、「津波が来るぞー」という人々の声に、すぐ裏手にある山に半日ほど避難していた。私は、津波や家の前面にある園瀬川の様子が気になり、山に避難せず、外で状況を見守っていた。というのは、当時二十歳半ばの私は、家業で川に大きな材木を結わえたいかだを浮かべ造船材などを曳く事業をしていたからだ。その家の財産が津波によってどんな目に遭うか気が気ではなかったからだ。すると、川の水が「ザッー」とものすごい勢いで海側の津田の防波堤の方まで引き、普段なら50m以上もあるだろう川幅が、水が引いたせいで帯のようにわずか一間(1m80cm)に満たない川幅になった。次には、その引いた波がすごい速さと勢いで、川の方に押し戻ってきて、案の定、いかだは波にのまれてしまった。その水の速さといったら、その頃の私が全力で走っても到底及ばない速さだった。そして、とうとう津田の橋の桁にいかだが轟音と共に勢いよくぶつかってしまい、思わず「うわぉーっ」と唸ってしまった。それから津波の押し波、引き波が10回程度繰り返しているうちに、ついに、いかだの綱は切れてしまい、その材木は、バラバラになって点々と散らばってしまった。翌日にも、材木はバラバラで、川面に浮いていたが、2~3日も経つと無くなってしまっていた。また、家のすぐ前の園瀬川は、津波が来る前までは、引き潮になると対岸まで歩いていけるほどの「洲」があったのに、津波に土をさらわれてしまったのか、「洲」が影も形も無くなってしまっていた。とにかく「津波はごつかったでよ」の一言に尽きてしまう。家や近所、また地割れ等の被害はでなかった。このときは、財産を川に置いていたので、それが大きな被害だった。
 今後、このように大きな地震がきて、津波が来るならば、すぐに山に逃げる方が安全だと思う。また、メディアでは、何十年か後に必ず大きな地震が来ると報道しているが、「地震が来る」ということだけを報道するのではなく、「地震が来たときにはどう対処するか、いかなるものが必要か、どうすれば安全か」といった具体的な情報を今以上に常に流して、皆の意識を高めるよう警告していく必要があると思う。

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危機管理課 

〒770-8571 徳島県徳島市幸町2丁目5番地(本館7階)

電話番号:088-621-5529

ファクス:088-625-2820

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