更新日:2019年5月29日
河野典雄筆 絹本著色 41.0×57.0
明和6年(1769)突如幕府により隠居を命じられた蜂須賀重喜(1738~1801)は、江戸での謹慎を経て、安永2年(1773)徳島への帰国を許される。4月19日、徳島郊外の大谷屋敷に入った重喜は、ここで豪奢な隠居生活を送ることとなった。ところが天明8年(1788)その暮らしぶりが幕府からの譴責を受けることとなり、大谷屋敷を離れ、8月29日、徳島城下の富田屋敷へと引き移らざるをえなくなる。重喜の近臣たち、寺沢式部利知や樋口内蔵助正恭、猪子山三郎利安ら十余名も責任を取って罰せられてしまった。翌寛政元年(1789)には松平定信から重喜の謹慎についての注意も出され、さすがに重喜としても生活を改めざるを得ず、その後、享和元年(1801)10月20日に富田屋敷で没するまでの間、重喜は静かな謹慎生活に日を送ったのである。
富田屋敷移徒後の重喜の無聊を慰めるべく近侍していたのが、徳島藩士の河瀬克忠や藩儒立木信憲、そして河野典雄だったようである。本作品はそうした人的繋がりの中、描かれたものであり、上部に立木信憲(1741~1824)が次のような賛を記していることから、この画の来由が明らかとなる。
寛政庚申(12年)夏 太公病間屡召河野典雄、席上 命画観之、河瀬氏侍側話旧時云、甞夢過一郷、
山水清爽景色殊美、左顧右眄応接不暇、荏苒進歩一路闊達、遙望天際丹霞輝煌、忽観騰龍于其中、
尚在眼、典雄微宴、乗興之請試摸之乎、因成此図云 (立木)信憲識
「寛政庚申」は寛政12年(1800)のこと。この年4月あたりから重喜は体調が勝れなかったようで、5月15日に快癒するまでの間、典雄を呼び寄せては画を描かせていた。そんな中、河瀬克忠が重喜に語ったのが、ある日見た夢の話。夢の中で克忠は、美しい山水の景色の中をひとり歩いていた。すると遥か空のかなたに赤く映える雲が輝き、その雲の中を龍の天に昇っていく姿が見えたのだという。その時、傍らにいて微かに酔いが回っていた河野典雄。その夢の話を面白がり、画に描いてみせることになった。こうして成ったのがこの画なのだという―。
その後この夢の情景を描いた作品は克忠に贈られたようで、この画は河瀬家に長らく伝えられていた。朱に染まる雲と昇龍を、克忠が夢見た通りに描くため、おそらく典雄との間で何度も推敲がなされたものであろう。たいへん整理された見事な構図の風景画に仕上がっている。この瑞夢を写した画を見た重喜は果たして何を想ったであろうか。ちなみに重喜は、この画の描かれた翌年に亡くなっている。河野典雄は、その跡を追うかのように、重喜死去の翌年、享和2年9月19日に没している。
神河庚蔵「阿波国最近文明資料」(私家版、1915年)
徳島市立徳島城博物館(須藤茂樹)編「蜂須賀家の名宝と大名行列の世界」(徳島市立徳島城博物館、2007年)
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