明治21年4月25日法律第1号をもって、市制及町村制が公布されました。これには法の精神を盛り込んだ、上諭と長文の理由書が添付されました。この市制は、府県知事の具申によって、翌22年4月1日から、内務大臣の指定する地に施行されました。
徳島においても当時の県知事酒井明が、かつて御山下と称した朱引地内の33か町村とこれに接続する4郷町村に市制を施行するよう具申した結果、明治22年10月1日に徳島市が誕生しました。
朱引地の町村 徳島町・内魚町・中通町・通町・塀裏町・紙屋町・八百屋町・出来島町
西横町・寺島町・籠屋町・大工町町・古物町・北山路町・船場町・西新町・
東新町・桶屋町・寺町・新魚町・富田町・助任町・常三島村・助任西町・
前川村・福島町・福島本町・福島郷町・住吉島村・二軒屋町・富田浦町・
佐古町・佐古村
郷村 安宅村・大工島村・下助任村・南佐古村
このとき、市内の町村名のすべてを「町」で統一し、呼び方も原則として「まち」と読むこととしました。
徳島県統計書によると、このとき徳島市は人口6万861人、戸数1万4607戸、面積11.57平方キロメートルでした。
その規模は人口において、その年に市制をしいた40市のうち、東京・大阪・京都・名古屋・神戸・横浜・金沢・仙台・広島についで、全国で10位の大都市でした。
明治22年ごろ 徳島縣市町村區域表
全国第11位にランクされた明治27年の都会一覧表
市制施行当時の市域図
大正8年4月に都市計画法が制定されると、同14年7月に都市計画施行地の指定を内務大臣に申請するとともに、隣接町村を合併して大徳島市を建設しようとします。そして大正15年に斎津村・沖洲村を合併編入します。
昭和3年10月1日に板野郡川内村字向別宮・金沢新田を編入します。この日は徳島市に市制が布かれてから40年目にあたるので、はじめて「置市記念日」の制が設けられ、盛大な記念式典が行われた日でもありました。
その後も、昭和12年に八万村・加茂名町・加茂町をつぎつぎと合併しました。これによって徳島と総称されていた地域内の郷村で、市制施行のとき除外されていた地域はすべて徳島市に合併され、その面積は47.53平方キロメートルに広がり、人口は一躍12万4626人、戸数2万5996戸となって、四国第一の都市となりました。
徳島縣治概要 徳島縣発行 大正11年(1922年)
自治制發布五十周年記念編纂 徳島縣治概要 徳島縣発行 昭和13年(1938年)
自治五十年小史 徳島市役所発行 昭和13年 (1938年)
写真でみる徳島市百年 徳島市発行 昭和44年(1969年)
徳島市史第2巻 行政編・財政編 徳島市発行 昭和51年(1976年)
徳島市史別巻地図絵図集 徳島市発行 昭和53年(1978年)
徳島市議会史 第一巻 明治二十二~昭和二十一年 徳島市議会発行 平成元年(1989年)
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