鼠繻子地山水模様染小袖(ねずしゅすじ さんすいもようぞめ こそで)
最終更新日:2019年5月30日
江戸後期
徳島城に仕えた御小姓女中大川里起の所用。奥女中の着物は他に見られず貴重である。故大川正夫氏寄贈。
里起は、文久元年(1861)9月に藩に提出した大川家の家譜「成立書并系図共 大川彦蔵」(徳島大学附属図書館蔵)によると、大川小左衛門の娘で、安永元年(1772)正月29日、江戸で御次女中(二人扶持支配七石)に召し出され、翌年5月7日藩主の参勤交代とともに阿波に入り、以後徳島城に詰めるようになった。寛政8年(1796)正月10日里起は御小姓女中に立身し養子を迎え家を興すことを許されたが、文化6年(1806)没した。
なお、徳島城の奥御殿に仕える女中は文政11年(1828)には93人おり、明和4年(1767)の記録をみると、女中は老女(百石)を筆頭に中老(五人扶持支配二十石)、御小姓女中(五人十五石)、御次女中(四人八石)、御三之間女中(四人七石)、御半居女中(三人六石)、御半女(二人四石)という階層があったことが分かる。また、大川里起のように勤功により累進し御小姓女中に立身すると家を興すことが許されていた。
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